伝説のライダーであるウェイン・レイニー選手
伝説のライダーと言われ「ミスター100%」と言われたウェイン・レイニー選手をご存知の方は多いのではないでしょうか。
先行逃げ切り型とも言われた「レイニーパターン」という走りが彼の得意技でした。
アメリカ合衆国のカリフォルニア州出身でケビン・シュワンツの永遠とも言われた彼の壮絶なレース人生を語ります。
バイク好きな皆さまにとっては興味を引く英雄伝説です。
ウェイン・レイニー選手のプロフィール
ウェイン・レイニー選手は1960年10月23日にアメリカ合衆国カリフォルニア州ダウニーの出身です。
6歳の時から父に与えられたミニバイクに乗りバイクでサーキットも走っていました。
レースキャリアをスタートさせたのは1977年にダートトラックで以来順調にステップアップして優秀なライダーに成長していったのです。
1983年にAMAスーパーバイク選手権でチャンピオンになったのですがそれはケニー・ロバーツやフレディ・スペンサーが激戦を繰り広げた難関のレースでしたからその成績はすばらしいものでした。
1984年にはロードレース世界選手権250ccクラスにYAMAHA TZ250で全てに参戦したのですがそれはケニー・ロバーツという当時引退した選手からの誘いがあったからでした。
しかしその年はチームの不調もあって良い成績ではなかったのですがその翌年にAMAスーパーバイクに戻った後の1987年には再びチャンピオンに返り咲いたのです。
チーム・ロバーツ・ヤマハに加入したのはその翌年1988年でロードレース世界選手権500ccクラス全てに出場することになりました。
1993年までの活躍と衝撃の引退
レイニーパターンを確立し数々の有名選手との争いに明け暮れていたレイニー選手は1993年までにロードレース世界選手権で素晴らしい記録を数々残し優勝に輝くこともたびたびでした。
1993年にはもうはWGPの中心となりレイニー選手抜きではレースは盛り上がらないほどだったのでしょう。
1993年第11戦チェコGPでレイニー選手はランキングトップでした。
その次はイタリアGPでレイニーが得意とするサーキットのレースでしたから観客はレイニーの走りを楽しみにしていましたし実際にものすごいレースだったのです。
3周目でトップに躍り出たレイニーは得意のレイニーパターンを繰り広げレースは盛り上がりを見せました。
11周目になるともうこれでレイニーの勝利は疑いようもないと誰もが思ったでしょう。
しかしそこで起こったのは信じがたい大事故でレイニーは高速コーナーで杯サイドを起こして転倒しマシンから放り出されてしまいました。
頭部から倶ラベルに落下した大クラッシュによってレイニーは第六頚椎損傷の重症になり半身不随になってしまったのです。
1994年に「半身不随のために再起不能」とされたレイニーでしたが彼の不屈の精神はそこで終わらなかったのです。
その年に立ち上げたマールボロ・ヤマハ・チーム・レイニーで車いすのチーム監督としてレース現場に復帰しました。
やがてレイニーが才能を育成した選手は原田哲也やK・ロバーツJr、そして阿部典史という粒ぞろいの選手たちだったのです。
このようにレイニーはどのようなことになってもバイクの世界をあきらめませんでした。